心が愛にふるえるとき の歌詞解釈について

 

 私は日本語学を学ぶ上で、音声学について強く興味をもった。具体的にひかれたものは、音声と音韻を学ぶ上ででてきた、イントネーションとプロミネンスのテーマである。日本語では、規則性のあるアクセントやプロミネンスを用いている。私は、現在趣味で合唱を行っているため、日本語における歌詞のアクセント、プロミネンスが曲の音符と準じているのかに興味をもった。本稿ではいくつかの合唱曲を取り上げ、日本の合唱曲における歌詞のアクセント、プロミネンスと話し言葉における日本語のそれが同じ科、異なっているのかについて論じる。

 作曲千原英喜 詞五木寛之 混声合唱組曲『心が愛にふるえるとき』より、一.「心が愛にふるえるとき」に見られるプロミネンス、アクセントの特徴を調べた。この曲は、組曲の一番目にあたり、ヴァース+ブリッジ+コーラスの歌謡形式によるもので、ブリッジからコーラスへの思いきった転調が特徴である。以下は一番の歌詞の引用である。また、NHK日本語発音アクセント辞典を参考にし、主線パートにおけるアクセントと日本語のアクセントが異なる部分に傍線を引いた。

  希望の光は まだ見えない

  それがなくては 生きていけない

  手さぐりで どこまでも

  夜の道 はてしなく 歩いていく

  いつかはきっと 出会うだろう 

  たしかな希望に 真実に

  

  夜明けに鳥たちが はばたくとき

  朝日に 草たちが めざめるとき

  心が愛に ふるえるとき

 右の通り、生きていけないの生き、と朝日、というわずかな単語以外は日本語の通常アクセントと高低が同じという結果になった。通常アクセントと異なった二単語について、後者の朝日から見解を述べる。通常の日本語のアクセントではサヒであるが、この曲での朝日は、ラソラという音程、つまり、というアクセントになっている。夜明けに~からふるえるときまでがこの曲のサビであり、ここは波打つような音階となっている。そのため、全体的に単調とならないような工夫がなされた結果である、と私は考える。生きていけないの生きの通常日本語のアクセントは生だが、この曲ではファレという音程、きというアクセントとなっている。この曲は二番まである。生きていけないに呼応する二番の歌詞は、信じられない、というものである。信じるの日本語のアクセントはシンジル又はシンジルであり、生きると同じような二番目の文字が高くなるアクセントを用いる言葉だ。だが、二番の信じられないの音階はレファファソーソドファ(しんじらーれない)となっており、シンジルという日本語アクセントに沿った音階となっている。これに対し一番の歌詞、生きていけないは、ファレファソーソドファ(いきていーけない)となっている。二番と音程が異なっていることから、一番の生きるだけは意図的にこのような音程にしたと考えられる。生きる、という歌詞の重さが、アクセントをあえて本来のものと変えることにより、よく伝わるようになっていると推測する。

 別の人の作曲、作詞の合唱曲も調べた。信長貴富作曲、谷川俊太郎作詞 合唱のための6つのソング『ワクワク」より、2.「ほほえみ」について、「心が愛にふるえるとき」と同様に調査を行った。以下は、歌詞の引用であり、日本語の発音と異なるものに傍線を引いた。

  ほほえむことができぬから

  青空は雲を浮かべる

  ほほえむことができぬから

  木は風にそよぐ

  

  ほほえむことができぬから

  犬は尾を振り――だが人は

  ほほえむことができるのに

  時としてほほえみを忘れ

  

  ほほえむことができるから

  ほほえみで人をあざむく

 ほほえみは、通常の日本語のアクセントでは、ホホエミとなる。だが、傍線をひいた「ほほえみ」のほほえみは、ホホエミと語頭にアクセントがついていた。これは、後半のダークなメロディーにほほえみという明るい言葉をうまくのせるための工夫であると考える。

 このように、二つの合唱曲を例に出したが、いずれも歌詞のほとんどは日本語のアクセントに準じて音にのせられていた。ただ、わずかに違う部分が見られ、それは作中で重要となる言葉ばかりであった。音楽的美のために、アクセントを変えたのだと考えられる。

 合唱の特徴的なプロミネンスとして、三善アクセントというものを取り上げる。これは、いわゆる愛称であり、クレッシェンドデクレッシェンドの記号が

右のように短く狭くくっついたアクセントのことを指す。作曲家の三善晃が好んで使ったことからこのような愛称がついた。つつみこむように狭い部分を際立たせて歌う。通常の日本語ではプロミネンスで際立たせる語は、重要な名詞であることがほとんどだ。合唱もそのように名詞を際立たせる歌い方は勿論行う。だがそれ以外にもプロミネンスは、クレッシェンドを使って句全体を強めるようにするほか、前述した三善アクセントのように一音を際立たせて歌うことも多々ある。また、三善アクセントで強調する言葉は名詞よりも、ahや伸ばした音など、語句以外の部分に用いられることが多い。それは、一音の名詞に限りがあること(『心が愛に震えるとき』5「追憶」では、いつの日の“日“という言葉に三善アクセントが用いられていたため、名詞に使わない、というわけではない。)単調な伸ばし音に印象を与えることができる、アクセントで語の意味が大きく変わる日本語で強弱を変える三善アクセントを語句に使うと、歌詞がききづらくなる、という可能性がある、といった理由からだと考えられる。

 このように話し言葉における日本語と日本語合唱における日本語が、異なっている部分もあることがわかった。日本語合唱におけるアクセントとプロミネンスの特徴と考察を述べることが出来たと考えるので、ここで擱筆する。