合唱の歌詞解釈における懸念

最初に言うと、単なる愚痴だ。

私は、作家の心情や作品の背景を読み取ることが好きだ。小説においても、合唱においても、詩においても。

合唱作品の歌詞解釈というものは、合唱を演奏するうえで発声とアンサンブルの次くらいに重要な事だと思っている。構造の研究はもちろん、作者の生まれ、成長の過程、そのうえで考え感じたことを読み取ることが大切だ。

私が所属するアマチュア合唱団でも(おそらく)重要視されている。技術指導の人間の歌詞解釈が団員に公開、共有されている。個人によって歌詞解釈は異なるが、指揮者含めたパトリ等はこの解釈でやっていますよ、というスタンスだ。(私もそれには同意するし、私自身好きにさせてもらっている。)

ただ、その歌詞解釈がどうもわたしと合わない…… もちろん懸命に考えたことが伝わるし、大筋はぶれていないのだけど。大筋がブレるってよっぽどだな。(言うと老害になるしパトリでもなんでもないのに練習さぼりまくっているのに歌詞解釈ケチつけるのはあれだしりでブログにひっそりと書くのだが…)

私自身、一つの合唱団にしか所属していないのでもちろん私がずれている可能性もある。だが、とりあえず私がこうあってほしい!という理想の歌詞解釈のあり方を記す。ちなみに私自身はこれだけ大口をたたいておいて少しも今回の演奏曲の歌詞解釈終わっていない。 いいよね、私のブログだし、大口たたかせてください。

まず一つ。とりあえず、何を解釈をする上でも、ネット辞書を使ってしらべないでいただきたい。

これ、本当によくない。Wikipediaと同じくらいよくない。(ウィキをたまに編集するものとしては、あれの方がまだその界隈のオタクが書いている情報も多いため論文の端くれに載ってるようなことを軽く知ることができるのでネットリテラシーさえあればまだ役に立つと考える。)ネット辞書というものは大概専門家でも何でもない奴が何版かも分からん辞書から色々情報を引っ張ってきてスマホでパソコンで言葉をお手軽に調べることができるようにしたものである。もちろん新聞を読んでいてこの熟語どういう意味だっけとか、そういう場合にはご活用していただきたいが、歌詞解釈では御法度だと考える。

じゃあ何の辞書使うの? えっとですね、基本的にその作詞家が生きた時代の辞書を使ってください。現代作詞家はともかく賢治以前あたりの近現代、もしくはそれより遡るなら絶対にその時代の辞書を使うべきであります。そのくらい遡るなら大学や県の大きな図書館じゃなくてちょっとさびれた図書館にも置いてあるはず。なんで当時の辞書使うかの理由は言うまでもないですが眠くなったのでまた明日にでも書きます。

あまり個人情報を晒したくないが、人文系の論文をよく書く人間だ。私は。

 

『新蔵人物語絵巻』注釈 第六段落

『新蔵人物語絵巻』注釈 第六段落  

 

【原文】

 

  兄の蔵人は嫡子なれば、二十ばかりにも多くあまりぬ。さのみやもめ住みにてもあるべきならねば、殿上人ほどの人の娘を迎へぬ。かすかなるさまなれども、さすが何事も品ある人にて目安ければ、心ざし深くて住み侍りける。

  一.人は思ふやうならぬこともあれども、この御兄弟どもほど、めでたきことはな

し。(上臈)

  二.御一人、何事を仰せらるる。(上の御介錯二条殿)

   

  添ひまゐらせ候ひてより後は、他へも立ち出でたくもなし。御所へ参るも物憂き心地して。(蔵人)

 

【現代語訳】

 

  兄の蔵人は嫡子であり、二十歳のほどもいくらか超えてしまった。連れ合いのいない一人住みばかりを押し通すべきではないので、殿上人くらいの身分の人を妻に迎えた。暮らしぶりはささやかな様子であるが、そうは言ってもやはり何事にも品性があり感じのいい人なので、蔵人の妻への思いも深く、結婚してともに暮らしなさった。

.人は思うようにならないこともあるが、このご兄弟たちほどすばらしいことはない。(上臈)

.あなた様一人で何を仰っているのでしょうか。(上の御介錯二条殿)

 

夫婦となり申し上げてから後は、他へ外出なんてしたくない。御所に参るのも面倒な感じがする。(蔵人)

 

【解釈と鑑賞】

 

 〇さのみ

  『時代別国語大辞典』より、副詞「さ」に助詞「のみ」の付いたもの。その状態ばかりを押し通すさま。

 〇やもめ住み

 『室町時代の少女革命』より、男女問わず、連れ合いの無い一人住みのこと。

 

 

〇上臈

 『時代別国語大辞典』より、高貴な家柄・身分の出であること。また、そのひとを指す。特に、宮中に仕える女房のうち、上流の家柄出身の人を言う。上臈女房とも、

〇かすか

 『室町時代の少女革命』より、細々とした暮らしぶり。 『時代別国語大辞典』より、世俗的にみれば満たされておらず、さえない状態、様子。

 

 蔵人について

 二段の部分で蔵人の人柄や品性は褒められているが、六段でも改めて褒められていることが分かる。褒められるほど、七段で書かれる蔵人の様子が残念に思われる。蔵人の結婚と職務怠慢は新蔵人を帝と近くさせるために必要なものだが、それだけの理由で二度にわたって褒める必要はないと考える。こんなにも蔵人を褒める理由が後段の彼の人柄に表われるのかと思えばそうでもない。十二段を見ると、蔵人は妹の出家の相談について、よいことだと思う気持ちよりも、奉公の代わりをこれからしてもらえないことを残念に思う気持ちの方を意見として強く述べている。蔵人への評価の高さは、帝に仕えることができ、自分より身分の高い人と結婚できる優秀な人材、という設定ゆえに作られたものであり、それ以上でもそれ以下でもないと考える。

  画中詞について

 上臈の画中詞における言葉は当時の蔵人の評価をまとめたものであろう。これに対し上の御介錯二条殿は何を一人でしゃべっているのかと揶揄するか不思議に思うかのような言い方をしている。この会話は通常行われるものだと考えると不自然であり、読者に向けて喋る、あるいは喋らされている上臈と、そうではない上の御介錯二条殿のやりとり、と考えると自然であろう。上臈の言葉は現代においてよく見られるメタ発言(物語内部で登場人物が物語内部では知りえるはずのない情報に言及したり、文章の読み手や視聴者などを対象とした発言を行うこと)に近いものであると言えるだろう。また、上の御介錯二条殿の反応はメタ発言の返しとしての常套句である。物語の作り手と受け手の間で発生するコミュニケーション文化が、この時代にはすでに存在していたのだと言える。

 

【参考文献】

阿部泰郎監修『室町時代の少女革命』(笠間書院 二〇一四年)

室町時代『時代別国語大辞典 室町時代編』(三省堂 一九八五年二〇〇一年)

心が愛にふるえるとき の歌詞解釈について

 

 私は日本語学を学ぶ上で、音声学について強く興味をもった。具体的にひかれたものは、音声と音韻を学ぶ上ででてきた、イントネーションとプロミネンスのテーマである。日本語では、規則性のあるアクセントやプロミネンスを用いている。私は、現在趣味で合唱を行っているため、日本語における歌詞のアクセント、プロミネンスが曲の音符と準じているのかに興味をもった。本稿ではいくつかの合唱曲を取り上げ、日本の合唱曲における歌詞のアクセント、プロミネンスと話し言葉における日本語のそれが同じ科、異なっているのかについて論じる。

 作曲千原英喜 詞五木寛之 混声合唱組曲『心が愛にふるえるとき』より、一.「心が愛にふるえるとき」に見られるプロミネンス、アクセントの特徴を調べた。この曲は、組曲の一番目にあたり、ヴァース+ブリッジ+コーラスの歌謡形式によるもので、ブリッジからコーラスへの思いきった転調が特徴である。以下は一番の歌詞の引用である。また、NHK日本語発音アクセント辞典を参考にし、主線パートにおけるアクセントと日本語のアクセントが異なる部分に傍線を引いた。

  希望の光は まだ見えない

  それがなくては 生きていけない

  手さぐりで どこまでも

  夜の道 はてしなく 歩いていく

  いつかはきっと 出会うだろう 

  たしかな希望に 真実に

  

  夜明けに鳥たちが はばたくとき

  朝日に 草たちが めざめるとき

  心が愛に ふるえるとき

 右の通り、生きていけないの生き、と朝日、というわずかな単語以外は日本語の通常アクセントと高低が同じという結果になった。通常アクセントと異なった二単語について、後者の朝日から見解を述べる。通常の日本語のアクセントではサヒであるが、この曲での朝日は、ラソラという音程、つまり、というアクセントになっている。夜明けに~からふるえるときまでがこの曲のサビであり、ここは波打つような音階となっている。そのため、全体的に単調とならないような工夫がなされた結果である、と私は考える。生きていけないの生きの通常日本語のアクセントは生だが、この曲ではファレという音程、きというアクセントとなっている。この曲は二番まである。生きていけないに呼応する二番の歌詞は、信じられない、というものである。信じるの日本語のアクセントはシンジル又はシンジルであり、生きると同じような二番目の文字が高くなるアクセントを用いる言葉だ。だが、二番の信じられないの音階はレファファソーソドファ(しんじらーれない)となっており、シンジルという日本語アクセントに沿った音階となっている。これに対し一番の歌詞、生きていけないは、ファレファソーソドファ(いきていーけない)となっている。二番と音程が異なっていることから、一番の生きるだけは意図的にこのような音程にしたと考えられる。生きる、という歌詞の重さが、アクセントをあえて本来のものと変えることにより、よく伝わるようになっていると推測する。

 別の人の作曲、作詞の合唱曲も調べた。信長貴富作曲、谷川俊太郎作詞 合唱のための6つのソング『ワクワク」より、2.「ほほえみ」について、「心が愛にふるえるとき」と同様に調査を行った。以下は、歌詞の引用であり、日本語の発音と異なるものに傍線を引いた。

  ほほえむことができぬから

  青空は雲を浮かべる

  ほほえむことができぬから

  木は風にそよぐ

  

  ほほえむことができぬから

  犬は尾を振り――だが人は

  ほほえむことができるのに

  時としてほほえみを忘れ

  

  ほほえむことができるから

  ほほえみで人をあざむく

 ほほえみは、通常の日本語のアクセントでは、ホホエミとなる。だが、傍線をひいた「ほほえみ」のほほえみは、ホホエミと語頭にアクセントがついていた。これは、後半のダークなメロディーにほほえみという明るい言葉をうまくのせるための工夫であると考える。

 このように、二つの合唱曲を例に出したが、いずれも歌詞のほとんどは日本語のアクセントに準じて音にのせられていた。ただ、わずかに違う部分が見られ、それは作中で重要となる言葉ばかりであった。音楽的美のために、アクセントを変えたのだと考えられる。

 合唱の特徴的なプロミネンスとして、三善アクセントというものを取り上げる。これは、いわゆる愛称であり、クレッシェンドデクレッシェンドの記号が

右のように短く狭くくっついたアクセントのことを指す。作曲家の三善晃が好んで使ったことからこのような愛称がついた。つつみこむように狭い部分を際立たせて歌う。通常の日本語ではプロミネンスで際立たせる語は、重要な名詞であることがほとんどだ。合唱もそのように名詞を際立たせる歌い方は勿論行う。だがそれ以外にもプロミネンスは、クレッシェンドを使って句全体を強めるようにするほか、前述した三善アクセントのように一音を際立たせて歌うことも多々ある。また、三善アクセントで強調する言葉は名詞よりも、ahや伸ばした音など、語句以外の部分に用いられることが多い。それは、一音の名詞に限りがあること(『心が愛に震えるとき』5「追憶」では、いつの日の“日“という言葉に三善アクセントが用いられていたため、名詞に使わない、というわけではない。)単調な伸ばし音に印象を与えることができる、アクセントで語の意味が大きく変わる日本語で強弱を変える三善アクセントを語句に使うと、歌詞がききづらくなる、という可能性がある、といった理由からだと考えられる。

 このように話し言葉における日本語と日本語合唱における日本語が、異なっている部分もあることがわかった。日本語合唱におけるアクセントとプロミネンスの特徴と考察を述べることが出来たと考えるので、ここで擱筆する。